キチンとキトサン

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主語の大きさについて

 ある刑法学者は言う。「法律家は厳格な基準で判断するから、他の学者から融通が利かないと揶揄される。」
 ある民法学者は言う。「法律家はある程度の幅をもって判断するから、他の学者からはっきりしないと揶揄される。」

 冒頭(もはやタイトル)から面倒な香りがしますが、最近気になっているのは主語の大きさについてです。上記の話は、大学で(法律を専攻しています)二人の教授が仰っていたことなのですが、ご承知の通り主語が大きすぎてその後の話が頭に入ってきませんでした。まあ、これは少々大げさですが笑

 さて、SNS等における議論の中でも、「男(女)は~だ」「老人(若者)は~だ」という定義から始めてしまうことで、その内容には一考の価値があっても中々上手くまとまらないものを見かけます。
 せめて、Some of~なんぞをつけていただけるとありがたいのですが、比較的論理的思考に強いはずの教授陣ですら上の調子ですから、一般人の発言にそこまで求めることは逆に不適切なのでしょう。
 ただ私のような変質者がソワソワしているだけです。大丈夫です。そう、頭の中のマサイ族が跳び跳ねながら、「お前の主語、俺よりデケエナ」と言うだけです。大丈夫です。(マサイ族の皆さんごめんなさい)

 …そこで、主語が大きすぎるという問題それ自身よりも、どうしてそうなるのか、ということが気になってきました。(もちろん、前者の問題がマスメディアや政治家の言論の中で生じることもあり、これは見過ごす事ができないのですが、ここでは一旦置いておきます。)
 基本的に、脳は「快」の方へ流れる仕組みになっていますから、主語を大きくすることによる「快」がその言動の理由と言えます。それは、一言で言えば【部分的全知全能感】ではないでしょうか。つまり対象範囲を狭めた知悉の喜びです。「Some of A=~」よりも「A=~」と言った方が、認識対象範囲としては広いですし、Aを含むより大きな対象A'があればそちらを使った方がより大きな喜びを得られるという訳です。
 冒頭の教授に、もしも、「その話の主語は刑法(民法)
とした方が適切ではないか」と問えば、恐らく肯定するでしょうし、そんなことはわかった上での発言でしょう。ただ、両者共にどこか愉悦の表情が見てとれましたし、細かい表現に拘るタイプであることも鑑みると、整合性への欲求よりも強い「快」がそこにあったのではないかと思います。

 ところで、人が怒った時に「あなたはいつも~なんだから‼️」という趣旨の発言をよく聞きますよね。これも主語を大きくすることと同じ、又は類似の関係にあるのではないでしょうか。というのも、怒りの対象人物が「いつも」怒らせる行動をとっている訳ではないからです。(残念ながら文字通り「いつも」…な人がいるかも知れませんが笑)
 つまり、「いつも」という点に怒っているのではなく、怒らせたのは「今」の行動が引き金になっていて(もちろん積み重ねというのはあります)、「いつも」は怒りの発散としてのツールなのです。怒りの対象の知悉による「快」によって、不快な心理状態を回復させようとしているわけですね。ですから、「いつもじゃない」という反論は、無意味かつ逆効果というのが恐ろしい所です。
 また、怒りの対象が自分に向かった時に「自分は何をやってもダメなんだ…」となるのが過剰な一般化という認知の歪みです。私がこの症状を初めて聞いた時は、精神的な自傷行為の一種なのかと思いましたが、これまでの観点から、自分自身の知悉という快を得る方法なのではないかと考えられます。
 自分に一番近いのは言わずもがな自分ですし、何か失敗した時には「自分=ダメ」という定義が最も手っ取り早いのです。
 なんだか速さを競うスポーツのように感じてきました。「自己知悉選手権」とか開催しないですかね。速さと的確性で点数を競うみたいな……いえ、冗談です。

 とまあ、ここまで勝手気儘に述べてきましたが、私の日々の鬱憤晴らしですし、なんらか溜飲が下がる方がいらっしゃれば幸いです。
 とりあえず、主語を大きくすると気持ちが良さそうなので最後にやってみたいと思います。


こんな文章を読んでるあなた、絶対時間を無駄にしてますよ笑